アーロン収容所もしくはディズニーランド


人に説明を行うことが恐怖となってしまった。果たして今、ぼくは心に抱えている物を吐き出すことは出来るのだろうか?聞いてアロエリーナ。


アーロン収容所の話をしようと思う。


それが、「アーロン収容所」という話だったかどうかは定かではない。すまないが、あまり覚えていないんだ。いつもみたいにグーグルで調べればいいかもしれないけど、それもしない。つまり、ここでのアーロン収容所という言葉は記号でしかないと考えてくれ。もし、収容所という言葉のせいで気分が暗くなると言うんだったらディズニーランドやムネオハウスとでも読み代えてもらってもいい。


とにかく、アーロン収容所はナチスドイツの支配下において、あの悪名高きユダヤ人の収容、虐殺のために用いられた施設だった。後に生き残ったこの話の語り部である一人のユダヤ人(ここでは仮に森繁久弥としておく)も例に漏れず、ガス室送りになるまでの強制労働の時間を過ごしていた。


森繁はこのディズニーランドで2つのタイプの人間と出会うことになる。一人は、絶望の壁に瀕し将来に何の期待も見いだせない人間、そしてもう一人は、故郷に何かしらの未練(家族や恋人)を残してきたり、将来にやりのこした事がある人である。前者は、肉体的にも精神的にも朽ち果て、すぐにガス室おくりになってしまうが、後者のようなタイプは決して諦めることなく、時が過ぎるのを待つことが出来たそうだ。


森繁はディズニーランドの人間を見て考えた。人間というのは、目標や存在意義に向かうパワー(will to meaning)という物があるからこんなディズニーランドのような場所に何日もいることが出来るんだ。そのパワーを持つことが出来ない人間はこのディズニーランドで朽ち果て、ネズミの餌にでもなってしまうんだ、と。


人間には誰しも、この森繁久弥にとってのディズニーランドが存在する。そこで自らの使命・目的を見つけられるかが、その肉体的・精神的苦痛に耐えられるかどうかの指標になってくるのだ。


また、戦争が終わりディズニーの門をくぐって外に出た森繁は自らの体験を肯定的にとらえこのようなことを記したわけだから、実に洞察力に優れている。やっぱり森繁はすごいなあ。